2014年7月8日火曜日

柿谷曜一朗選手の移籍について

【14/07/07】柿谷曜一朗選手の移籍について

弊クラブ所属のMF柿谷曜一朗選手が、2014年7月16日付けで、スイスのフースバル・クラブ・バーゼル1893(Fussball club Basel 1893/スーパーリーグ)へ完全移籍することになりましたので、お知らせいたします。 柿谷選手のプロフィール、コメントは下記のとおりです。
なお、7月15日(火)川崎フロンターレ戦の試合終了後にセレモニーを行う予定です。

《柿谷 曜一朗(かきたに よういちろう)選手》   
■生年月日  : 1990年1月3日(24歳) 
■身長/体重 : 177cm/68kg
■ポジション :  MF
■経歴      : セレッソ大阪スクール('94)→セレッソ大阪U-12('00)→セレッソ大阪U-15('02)→セレッソ大阪U-18('05→セレッソ大阪('06)→徳島ヴォルティス('09.6~)※期限付き移籍→セレッソ大阪('12)
■代表歴   : U-15日本代表、U-16日本代表、U-17日本代表、U-18日本代表、U-20日本代表、日本代表
■出場記録  : ※2014年7月7日現在
◇J1通算 リーグ戦   78試合出場/33得点  / カップ戦 試合  15試合出場/8得点
◇J2通算 リーグ戦  148試合出場/18得点
◇ACL            8試合出場/ 4得点
◇天皇杯                     8試合出場/ 1得点
■柿谷曜一朗選手のコメント
「僕はセレッソがめちゃくちゃ好きだし、一緒にやってきたみんなとタイトルを取りたい気持ちはありました。でも、もう一度海外でプレーできるチャンスが来て、ワールドカップで悔しい思いをした中でいっぱい考えて、FCバーゼルでチャレンジしようと決めました。今のセレッソには一番上に立つべき選手たちが揃っていると思います。全員が輝くことを祈っているし、僕もそれに負けないようにがんばります。これまで本当に応援してくださったサポーターの皆さんには感謝しています。皆さんの前で、(リリース上ではなく)自分の口できちんとお礼をいいたいと思いますので、少し時間をください」

かねてから話しが出ていた、柿谷曜一朗の移籍が発表されました。
セレッソにとって森島寛晃氏に次いでといってもいいぐらいの特別な選手で、その選手が森島氏が長年背負った8番を香川真司、清武弘嗣の後につけることになったのが2013シーズン。
そのエースナンバーを背負ったのは1年半という期間で移籍する事となりました。

古くからセレッソを追いかけているサポーターにとって柿谷曜一朗はセレッソの希望でした。
わずか16歳にしてトップチーム昇格。ボールを触る所と触らない所が他の選手とは全く違うドリブルや、身体から離れた場所でも足にさえボールが当たればコントロールできるんじゃないかという様なファーストタッチなどプレーを見れば他の選手とは違う特別な才能を持っている事がすぐにわかるほどの選手でした。

徳島での2年半については数多く取り上げられていますが、柿谷にとってセレッソに帰ってきてからの2年半はそれと同じぐらい大きく代わり成長した期間だったんじゃないかと思います。
以前のエントリでも書きましたが、セレッソに帰ってきた2012年の1月こんな会話をしました。

ーお帰りなさいって言って良いですか。
「はい。ありがとうございます。」

ー戻ってきてくれる日を楽しみに待ってました
「はい、はいがんばります。」

ー今年は13です。僕達はまだ先にある8をつける日を待ってます
「いや僕はつけないです。8の重さは誰よりもわかってるんで簡単につけますとは言えないです。まあ○○さん(近くにいたスタッフの方)が土下座してくれるんやったら考えますけど(笑)。」
短い会話で最後はちょっとごまかされてしまいましたが、セレッソ思い、セレッソの8番への思いを感じました。
ただ、この時はまだベンチの一番手という立場でしたし、話しをした時は徳島に行って変わったなあと感じましたが、今となって思い返せばこの頃は今の柿谷とは違う、良いとか悪いとかでは無くまだ徳島に行く前の柿谷に近い印象もありました。

そしてベンチの一番手からケンペスとの2トップの一角としてポジションをつかみ出場時間を増やしていくとその立場もあってか少しずつ発言が変わっていきました。
そしてこの年3代目の8番として半年間プレーした清武とキム・ボギョンが移籍すると完全にチームのエースとしてのプレーをはじめ、練習でも完全にチームの中心に。発言もエースらしいものになっていきました。
このシーズンが柿谷にとっては自分以外で8番をつけた選手と最も長い期間一緒に試合に出場したシーズンでしたが、監督交代もあったり、8番のプレッシャーに苦しんでいた清武の側でプレーする事で、改めて8番の意味やチームのエースとしてのあり方など多くのものを学んだんじゃないかと思います。

2013年に柿谷が8番を背負った事は、その後のブレイクもあわせてメディアでは新しいスターである柿谷人気の一部として扱われていましたが、セレッソサポーターにとっては何年も待ち続けた、そして1度は諦めかけたセレッソの未来が実現した瞬間でもありました。
そして柿谷本人にとっても、2008年に目の前で同期入団の香川真司が森島寛晃から直々に8番を託されたのを見て悔しい思いをし、そして森島に送ったメッセージが実現した瞬間でもありました。
実際にオファーもあった様ですし、年齢的にもタイミングとしてはおそらく柿谷自身のキャリアの事だけを考えると、ここがヨーロッパに移籍するにはベストなタイミングだったと思います。ただ柿谷はここで8番で本気でタイトルを狙う事を選びました。
夏場の連敗、5試合連続引分けで残念ながらタイトルは叶いませんでしたが、おそらく柿谷自身はこれだけ結果にこだわってプレーしたシーズンは初めてだったでしょう。

ヨーロッパでプレーし、香川真司のいるステージまで追いつくにはおそらくこのタイミングがギリギリです。そしてセレッソサポーターにとっては幸か不幸かこのセレッソに帰ってきてからの2年半でJリーグを代表する選手となりセレッソの枠で収まる選手ではなくなるほど成長しました。
柿谷はこの2年半で彼自身も成長し、チームメイトも、そして8番を背負った1年半でクラブの価値まで高めてくれました。220万ユーロとも200万スイスフランとも言われる移籍金も残してくれる。
残念ながらタイトルという結果はかないませんでしたが、彼自身がそうだった様に8番を背負った柿谷のプレーを側で見ていた選手達がその意思を継いでくれるはずですから、スイスでそのプレーを見せつけてきてくれれば。
続きはまた帰ってきた時に。

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